僕は猫だ。
もちろん初めから猫だったわけじゃない。僕が猫になったのは恋人の彼に会った頃から。彼は優しく素直でいつも僕に尽くしてくれる。そしてその度に僕は嘘をつく。
きっと罰が当たったんだ。素直な僕の気持ちを彼に伝えることすら出来なくなってしまった。本当の自分を見失い彼をも傷つけた僕には当然の報いだろう。
今日も君が僕の名前を呼ぶ。
名前の後ろに『さん』をつけるのは癖らしく、不思議そうに君を見つめた。 そして
「凛鈴」
と、もう一度僕の名前を呼んだ。君は恥ずかしそうに頬を赤らめ僕は可笑しそうに笑っ た。
凛鈴さんは喜怒哀楽が忙しいね。
君が微笑みながら僕にかけた言葉。思いもよらぬ言葉に一瞬声がこもる。けして、責めるつもりで言ったのではないことくらい彼の雰囲気から十分伝わってくる。それなのに、鼓動が速くなりどこか緊張しているのが自分でもわかった。それを隠すように僕はまた嘘をつく。
「拗ねているの?そんなつもりじゃなかったんだけどな」
と、言いつつ君は満足そうに笑った。まるで〝そういうところだよ〟 なんて言われているようで。僕も君の真似をして笑ってみた。うまく笑えているかな。
彼といると甘えてしまう。その優しさを利用してしまう。そんなことになるなら僕を嫌いになってくれればいいのに。僕は彼を嫌いになるなんてできないのにさ。
結局別れの言葉すら言えず行き先もなく只々ひたすらに足を動かした。なるべく遠くへ君から逃げたかった。
近くにあったベンチに腰を下ろし呼吸を落ち着かせる。喉が渇いていたがそこから動く気力すら残っていなかった。
日が暮れ始めた。でも、ここが何処なのか僕には分からない。
「凛鈴!」
僕の名前。誰かが呼んでいる。でも彼ではないことはわかっていた。はずなのに。
君じゃないはずなのに、目の前にいるのは確かに僕の大好きな君だった。
息が上がっている。走ったのだろうか。
…僕のために?
「探したんだよ、どこに行ったかと思ったら、すぐ近くじゃないか…」
嬉しかった。君が僕のことを一生懸命探してくれたことが。すっごく。
目頭が熱くなって今にも涙が溢れそうだった。そんな僕に気づかないふりをして隣にそっと並んだ君はどこまで優しいのだろう。
他愛もない会話を交わし、君が立ち上がる。
「帰ろうか」
優しい微笑みとともに僕の手をとり、ぎゅっと握りしめた。繋がった手の温もりを感じながら君と一歩を踏み出した。
君が僕の手を引く。
強く。そして優しく。僕を手放す気がないようだ。君は僕のことが好きだなあ。僕も君に負けないくらい君のことが
『大好きだよ』
夕日に照らされる君の後ろ姿を見つめている。君は細いな。ちゃんと食事はとっているのだろうか。無理はしていないだろうか。僕の瞳に映る君はありのままの君だろうか。
君は振り向き、僕に眩しい笑顔を見せる。
僕の大好きな笑顔。
その時僕は思ったんだ。
もう、猫かぶりは終わりにするよ。
大きなその手をもう一度、しっかりと握った。はなすことのないように。