シイは静かな森の中を歩いていた。風は止み、鳥の声も聞こえない。まるで時間そのものが凍りついたかのように、音が消えた世界だった。足元の苔がふかふかと柔らかく沈み、暗い木漏れ日が揺れている。
ふと、背後から乾いた足音が聞こえた。振り返ると、そこには自分にそっくりな少年が立っていた。まるで鏡に映ったような姿は、不思議な静けさを漂わせていた。
「きみ、誰?」
シイが問いかけると、少年はかすかに笑った。だがその笑いはどこかぎこちなく、まるで誰かの真似をしているかのように感じられた。
「ぼく? きみ・・じゃなかったかな。」
少年の声はシイのものにそっくりだった。ただ微かに震えが混じっていた。
「ノトって、呼ばれていたことがある。たぶん、それでいい。」
ノトは柔らかく微笑んだ。その笑い方もまた誰かの真似をしているかのようだった。
「ぼくはここで生まれたんだ。誰かの記憶から、形だけが生えてきたみたいに。最初から真似しかできなくて。声も、表情も、動きも。自分のはずの手足ですら、どこか他人のものみたいで、いつもぎこちないんだ。」
ノトは「模倣律」によって生まれた存在
だった。失われた誰かの記憶や姿、残響をなぞるように形を得ている。彼には過去も未来もなく、ただその時々で見たものを写し取り、真似ることでかろうじて存在を保っていた。
「ねえ、きみと一緒に行ってもいい?ここにいると、自分が誰なのかわからなくなってしまうんだ。」
シイは静かに頷いた。
「・・・いいよ。」
ノトは明るくよく話し、森の構造にも詳しかった。いくつもの道を教えてくれた。だが日が経つにつれ、ノトの声や仕草が少しずつシイに似ていくのがはっきり分かった。
「最近、ぼくはきみに似すぎてきたと思わない?」
「・・うん。」
「でも、もしかしたらそれは悪くないかもしれない。ぼくはずっと誰にもなれなかっ
た。だけど、誰かになれるなら、それだけで少し救われる気がする。」
ノトはそう言って笑ったが、その笑顔の奥にはどこか無理しているような影があった。
「ぼく、名前って持ったことがなかったんだ。だから、“ノト”って呼ばれたときは、変な感じがした。でもね、きみにそう呼ばれると、少しだけ嬉しかったんだ。」
シイはその言葉に戸惑い、どう返せばいいのか分からなかった。
翌朝、ノトの姿はもうどこにもなかった。森の奥深くには、何十人、何百人の“ノト”のような顔が並んでいた。彼らは皆、誰かを模倣して生まれた存在。ノトもその一体としてそこにいた。
一体の顔が、かすかに口を動かした。
「“模倣律”は、形のあるものに名前を許さない。誰かの影をなぞって、生きて、そして消える。それが、ぼくらのつくられた理なんだ。」
風が木々のあいだを滑り抜け、言葉がかすかに鳴る。
「でも、きみに名前を呼ばれたとき―― ぼくの輪郭が、ほんの少しだけ違うものになった気がした。」
その声はかすれていたが、確かに笑っていた。
ノトの顔が消えた瞬間、ざわりと空気が揺れた。
模倣たちが一斉に名や形、記憶を求め、シイの名を口々に囁き始める。
「・・・シイ・・。」「しイ・・・。」
まるで彼になろうとするように。
シイは恐怖に背を押され森を駆け、走るその音だけが、森に微かに響いていた。