事の始まりは、母の一言だった。
「埒が明かないわ、付いてきなさい。」
動物愛護団体に所属している母は、動物の殺傷をとことん嫌っていた。たとえそれが、里山に暮らす人々を守るためだとしても。団体活動自体はいいのに、母の考えが偏りすぎているのだ。さらに厄介なのは、自分が正しいと思っていること。今日だって、一人で行くのが心細いだけだろう。付いて行ってもどうせ、隅で眺めながら『親ガチャ失敗とはこのことか。』なんて考えるだけ。だけど、シングルマザーとして頑張っている母に、私は何も言えなかった。いい経験になるからと、車で一時間と少し。連れてこられたのは、昔話に出てくるような田舎。車を山の麓に停め、上へ上へと登っていく。こんな山奥なのだから、今回話しに行くのは猟師さんかな。
歩いていると、どこからかヒグラシの鳴き声が聞こえて、山道から森に目をやると、枝に小鳥たちが見えた。この生態系を守るのも、猟師さんの役目なのだろう。熊が出てくるのではないかとおびえながらも数十分、木でつくられた大きめのコテージと小屋が見えた。少し歩調を早めた母は、玄関先まで来ると間髪入れずにドアベルを鳴らした。「はーい。」と奥から小さく声が聞こえ、少ししてドアが開いた。ひょろっとした男性で、奥には背の高い女の子がいた。
「先週電話した松村ですが。」
と母が言うと、居間のほうへと案内された。壁には、ここの体験教室のチラシや鹿の角などが飾ってあった。母は椅子に腰かけると、出されたお茶には見向きもせず話を切り出した。『結局私は何のために来たのだろう。』山まで来てスマホを触るのも何かもったいない、かと言ってすることもない。頬杖をついて窓から外を見ていると、さっきまで奥にいた女の子に声をかけられた。
「森の散歩でもする?風が気持ちいいよ。」
私は手招きする女の子を見つめた。自分を気にかけてくれたことが嬉しくて、胸がいっぱいになった。女の子について裏口から森に出ると、ひゅうと耳をかすめた風に木々がさわさわと音をたてた。
「私の名前は風香、呼び捨てでいいよ。」
「私は真衣、よろしくね風香。」
風香はぐんと伸びをしながら、気の毒そうに私を見た。
「しっかし真衣も大変だね~。」
「まあ慣れてるし、迷惑かけてごめんね。」
「よくあることだよ。」
風香は少ししゃがんで「これ美味しいよ。」と、赤い実を私に差し出した。森でよく採れる木苺で、ちょうど今が食べごろらしい。風香は木苺を手に持っていたかごに入れていく。
「やっぱ世の中いろんな意見があるし、自分たちが正しいとも言い切れないんだよね。」
木苺を摘む手を止めずに言う風香の顔は、少し曇っていた。
「逆に今日みたいなのは、まだいいほうかな。なんか今こんな時代だし、匿名のⅮⅯとかで好き勝手言ってくるのが一番悪質。」
スマホ一つで簡単に人を傷つけることができる今、わざわざ面と向かって話をしに来る人はまだいいらしい。
「そうなんだ。山奥だし、ネットとの繋がりってないと思ってた。」
と言うと、風香はくすりと笑った。
「おかげでメンタル鍛えられたよ~。」
対面で話をしに来ているにせよ、母が迷惑をかけているのは変わらない。一方的に他人を悪者扱いして、傷つけないでほしいと何度思ったか。でも、今でもなお意見を変えない母を見ていると、自分が何を言っても無駄なのかなと思ってしまう。
「なんか、【正しい】って何なんだろう。大人になったらわかるのかな。」
「大人になっても分かんないのかもね。」
風香と私は、空を見上げながら木苺を頬張った。