「ぼくは月にいくんだ」
六年前のあの頃、彼は眠るときいつも、スペースシャトルのおもちゃを大事そうに抱えていた。壁にたくさん貼ってあった夜空や字宙船の絵は、クレヨンの線が四方八方に落ち着きなく伸びていて、輪郭がぐにゃぐにゃで曖昧だった。でも、彼がいつも夜空を眺めていたからだろうか。その美しさをわかりきっているようで、どこか引き込まれる。私はきっと、その引力に導かれて彼と出会ったのだ。
初めてその少年を見つけた日。その日は、一年のうちで、月が地球に最も近づく日。いわゆるスーパームーンというやつだった。彼は、窓の外を見上げては、小さな手を必死に動かして、その光景を描いていた。そして時々、手が止まる。その壮大な月に、少年は魅せられたのだ。そして、私も魅せられていた。夢を見つめる、彼の瞳に。
今日、彼は窓から見える桜の木をぼーっと眺めている。すると、その木の下で、制服を着た男子たちが、談笑し始めた。胸に花飾りをつけている。この少年と同い年の、中学一年生だろう。楽しそうに喋る彼らの会話が、かすかに聞こえてきた。
「自己紹介カードの、将来の夢のとこ―――」
バンッ。少年は窓を閉め、耳を塞ぎ、背中を丸めてうずくまった。「将来」「夢」今の彼に、これ以上に聞きたくない言葉はないだろう。
四ヶ月前のことだ。その日も、何も変わらない、いつも通りの朝…のはずだった。
「持って四ヶ月です。」
少年は、涙を流したりはしなかった。ただ一言、息のような細い声で言った。
「そうですか。」
その日からだ。少年が夜空や宇宙船の絵を描かなくなったのは。
今、病室の壁には、テープを剥がした黄色い跡だけがひっそりと立ち尽くしている。少年の描いた夜空とスペースシャトルは、部屋の隅の段ボールの中で、静かに眠っている。あれから少年は、日が沈みそうになると必ず窓を閉める。私は、その憂いを帯びた背中を見つめることしかできない。
午後十時、冷たいほど静まり返った病室。チク。タク。チク。タク。秒針が進む音が、どこか悲しい。あの満月の日から六年。私の胸に芽生えたこの想いを、何と呼ぶのだろう。
私は窓際にそっと、「それ」を置いた。
春の夜風が、細い指先で少年の頬を撫でる。少年は体を起こし、目をこする。
「なんで窓が開い…」
閉じる唇。見開く目。窓辺に置かれた、写真立て。少年は、小さな額縁に入った、その絵を見つめた。遠い日に描いたあの、黄金に輝く月の絵を。ぽと、ぽと。少年の眼から、雫が月へと降り立った。震える手を強く握りしめて、少年は立ち上がり、夢から逃げるために隠してしまった、宝物を手に取った。窓からその身を乗り出して、広がる夜空に息を呑む。街の灯りが邪魔なのか、星も銀河も見えやしない。ただ一つ、深い藍色の中心に、あの日と同じ黄金の月が、焼き付くほどに輝いていた。彼は、目一杯の息を吸い、スペースシャトルに夢を乗せ、宇宙に声を響かせた。
「僕は、月に行くんだ!」
まっすぐ、スペースシャトルが飛び立った。月へと進むその道筋を、糸のような光がなぞっていく。紫色の涼風が、少年の髪をなびかせる。その瞬間、少年の描いた夜空たちが風に乗り、白鳥のように羽ばたいた!光の道を追いかけて、窓の外へと飛んでゆく。夢から生まれた白鳥たちは、月へと続く階段を創った。少年は手を広げ、涙を浮かべて微笑んだ。私は、また魅せられていた。夢を見つめる、彼の瞳に。少年が自分を見つけた日。その日は、月と地球が最も離れる日。だが、どれだけ月が遠くても、少年には関係なかった。距離にして四十万キロメートル。少年は月と目を合わせ、小さな一歩を踏み出した。