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あのときのエール

国立大学法人愛知教育大学附属名古屋中学校 2年
秀島美羽
少ない文字数で、回想シーンを挟む構造がよく考えられていて、うまくストーリーを展開していると思います。ハンドクリームや小銭といった小物の使い方も巧みで、とても読みやすく、感情の起伏もあり楽しく読める物語です。主人公の不安な気持ち、最後でホッとする気持ちも、よく伝わる作品でした。
(奥山景布子)
朗読:川本麻里那(劇団あおきりみかん)

 

 コツコツ。
 履きなれていないローファーの音を響かせながら桜道を歩く。平年より咲くのが遅かった桜は、散る時期では遅れを取らないよう、今年はすぐ咲きすぐに散るらしい。ちょうど満開に咲いている今日は、私が入学する学校の入学式だ。お母さんはラッキーだねと言っていたが、入学式は私にとっては二の次。今日、私には先約がある。あの日と同じ時間にバスに乗らなければ先約は果たせない。だから、無理を言って一時間も早く私は家族とバス停に向かっている。見事なまでに咲き誇るソメイヨシノの下で、あの日のことを思い出しながら―
 
 あの日はやけに乾燥している日だった。バスを待つ間、何回も何回もハンドクリームを塗り、息を吹きかけることを繰り返していた。
「ハァ~。」
温かい湿った空気が手に当たる。大丈夫。服の裾をギュッと握る。大丈夫。大丈夫。今度は深呼吸をする。真冬の冷たい空気を思いっきり吸って気持ちを落ち着かせる。そしていよいよだと自分に言い聞かせる。そう、今日は私の大本命の高校の受験日。この高校に行きたくて辛い受験勉強も乗り越えることができたのだ。絶対に受かりたい。絶対に!
 ヒューと風が吹き、バスが来た。今日は優しそうな顔のおじいさんが運転している。顔には白い髭がふさふさとまるでサンタクロースの様で、面白くてクスッと笑った。おじいさんのおかげか緊張が和らいだ私は意気揚々とした気持ちで乗車することができたが、数分後思わぬハプニングに見舞われた。なんと現金が足りないのだ。いつも使っている定期券は一週間前に切れたため、今週はずっと現金を使って塾に通っていた。そのため、現金が足らず、運賃が払えないのだ。どうしよう。焦りから冷や汗が首筋に伝っていった。足りない額は五十円。もしかしたら誰かが五十円玉を落としているかもしれないと思いあたりを見回したが、チリ一つないほどきれいだ。きっと清掃員さんの腕がいいのだろう。そんなバス内は普段なら居心地がいい場所のはずなのに今日はそのきれいさが皮肉に感じてしまう。まずい。どうしよう。そう思い続けていたら、停留所のアナウンスがなってしまった。「本日は北栄線をご利用いただき、誠にありがとうございます。次は終点砂田橋、砂田橋」それから数十秒後砂田橋に着き、ドアが開いた。中にいた乗客が列を作り、次から次へと降りていく。運賃の交渉をしているところを人に見られたくなかった私は列の一番最後に並んだが、永遠に続いてほしかった列はあっけないほど速くなくなり、ついに私の番になってしまった。
「すいません。カードがなくて現金で払うんですけど五十円足らなくて…また後日持ってくることはできませんか?」運転手のおじいさんは何も言わない。「お願いします‼︎」頭を下げる。お願い…。すると、しばらくしたらチャリンという音がした。え?と思い、顔を上げてみるとモニターに五十円と書かれている。そして、運転手さんの手には財布が握られていた。「どうして…」するとおじいさんは一言「受験がんばって」と笑顔でエールを送ってくれた。それと同時に「日本高校を受験する方はお急ぎください」と言う人の声が聞こえた。ハッ!私が受験する高校だ。私は急いで残りの運賃を払い、バスから降りた。その時、おじいさんにお礼を言い忘れたことに気づき、後ろを振り返ったが、既にバスは発車していた。私は遠ざかっていくバスに向かって頭を下げた。深く深く下げた。
 
 ヒューと風が吹き、あのおじいさんが運転しているバスが来た。おじいさんの白い髭は相変わらずだ。今日、届けよう。あのときの五十円とこの「ありがとう」という気持ちを私のサンタさんへ。